建設委員会視察報告 近江八幡

八幡堀の景観整備について(近江八幡市)

1 近江八幡市の沿革

近江八幡市は滋賀県の中央部、琵琶湖東岸に位置する。市域は全般に平坦地で、鈴鹿山系に源を発する諸河川により形成された湖東平野の一角を占める。市内には雪野山、瓶割山、八幡山、岡山、長命寺山、津田山などの小高い山が平野に浮かぶように点在し、琵琶湖上には同湖で最大の島である沖島と呼ばれる有人島がある。淡水域の有人島は世界的に見ても極めて珍しい存在である。また市の北東部には、隣接する安土町とまたがる形で西の湖が水郷地帯を展開しており、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つに数えられている。
古くから実り豊かな田園が広がっていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀次により現在の旧市街地を中心とした八幡山下町が開町され、陸上と湖上の交通の要所として人と物資・情報の往来が絶えず、商工業を保護した結果、全国から人が集まり、町が栄え、近江商人の本拠地として今日の近江八幡市が形づくられた。
現在は市内のそれぞれの地域の個性や、先人達から受け継いだ良質な文化遺産を活かしたまちづくりが行われている。特に市の発展に大きな影響を与えた八幡堀の環境に対する取り組みが行われている。

2 豊臣秀次と近江八幡城

(1)豊臣秀次
豊臣秀次は、三好吉房と豊臣秀吉の姉日秀(とも)の長男として、永禄11年(1568年)に生まれた。急激な出世を遂げた秀吉の一族として早くから引き立てを受け、天正11年(1583年)伊勢の滝川一益攻略では一軍の将を任され、さらに翌年の小牧・長久手の戦いでも別働隊の大将を務めるが大敗し、秀吉から叱責を受けている。
しかし、その後も一軍の将として、天正13年(1585年)の紀州攻め、四国攻めに活躍。叔父豊臣秀長とともに数少ない豊臣一門として秀吉を支えている。秀吉もそれに報いるかたちで所領を加増し、四国平定後には近江八幡城主、天下統一後には尾張清洲城主となる。そして天正19年(1591年)秀吉の嫡男鶴松が死去すると、秀吉の養子とされ、関白職と聚楽第を譲られた。
ところが文禄2年(1593年)に秀吉の子秀頼が誕生すると、秀吉との関係は微妙なものとなり、最後は謀反の嫌疑をかけられ、高野山にて自害に追い込まれた。
死後、秀次の一族・妻妾・家臣の多くも処刑され、秀次の首は秀吉に  よって三条河原に曝された。
近江八幡では、開町の祖であり、近江商人発展の礎を築いた秀次の遺徳を偲ぶ慰霊祭が、毎年7月15日に銅像の前で行われている。

(2)築城と城下町
鶴が翼を広げたような姿から、鶴翼(かくよく)山とも呼ばれる八幡山。その頂に近江八幡城があった。信長が本能寺の変に倒れた後、天正13年(1585年)に18歳にして43万石の領主となった豊臣秀次は、居城を八幡山と定め、築城に着手すると同時に、葦が生い茂る原野に縦12節、横4節の碁盤の目状に整然と区画された城下町を造成した。城下町には居住区を設け、堀の北側を武士、南側を町人の居住区域とし、さらに町人の居住区の西を商人、東北を職人の居住区とした。
自由商業都市としての発展を目指した秀次は、旧安土城下や石寺の商人、職人たちをすべて八幡に呼び寄せたほか、県内はもとより各地から有力な商人や技術者を集め、楽市楽座を取り入れた。
天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は京極高次が代わって城主となり、秀次事件の起きた文禄4年(1595年)に近江八幡城は聚楽第と同じく破却された。

3 八幡堀と八幡商人

八幡堀(はちまんぼり)は、幅員約15m、全長6kmに及ぶ堀であり、秀次が近江八幡城を築城した際に設けられた。城を防御する軍事的な濠としての役割に加え、物流の要所としての商業的役割を兼ね備えていた。
八幡堀は両端が琵琶湖と接続しており、秀次は当時の主要交通手段である船が琵琶湖に入った際には必ず八幡堀を通らなければならないと定め、城下町の商業的発展を促した。

近江(滋賀県)出身者で、他国で活躍した商人のことを近江商人と呼ぶ。近江商人といっても近江国内の発祥地によって実際にはさらに細かく分類される。その中で近江八幡で誕生し活躍したのが八幡商人である。八幡商人は江戸・京都・大坂をはじめ、北海道から九州まで国内全域を活動範囲とした。さらには朱印船貿易商として安南(ベトナム)やシャム(タイ)と交易するものもいた。これらの地方との交易には八幡堀が利用され、往来する船のために堀沿いには倉庫や土蔵が建てられた。
近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の理念を商売の基本とし、自らの利益のみを追求することなく社会事業にも大きく貢献した。

4 八幡堀の衰退

八幡堀は、戦後まで150石船(22.5トン)が往来し、まさに「八幡港」とも呼ぶべき繁栄をもたらした。
また昭和20年代までは江戸時代から続く「駄別組合」という水運業者などによる利用者組合のような組織によって定期的(30年ごと)に浚渫を行っており、琵琶湖の水と変わらない水質を保っていた。
生活廃水などで養分が含まれている堀の汚泥は、浚渫されて近隣の田んぼの肥料として使われており、さらに田んぼの粘土で八幡瓦を作るという、都市と農村の循環が成立していた。
しかし、昭和30年代に入ってトラックなどが普及し始めると、水運は使われなくなった。船を使わないということは堀に経済的な価値がなくなったということであり、浚渫も行われなくなり、昭和40年には堆積したヘドロは深さ1.8m、総量5万立方メートルにも達していた。
京阪地域の水利用量が増えるにつれて琵琶湖の水位は下がり、堀は干上がって既に堀ではなくなった。水位の下がった運河に生活廃水が流入することで、堀の水は富栄養化し、悪臭を放つようになった。

5 八幡堀再生への動き

(1)八幡堀埋立計画
昭和45年(1970年)、2400人の署名を集めた地元自治会の陳情に対し、県は堀を埋め、U字溝を通して駐車場に転用する方針を決め、昭和48年(1973年)に国の認可事業として埋立の工事を開始した。

(2)青年会議所の活動
ア 昭和47年(1972年)、近江八幡青年会議所は「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」をスローガンに八幡堀の浚渫と復元を求め、7300人の署名とともに県に陳情を行った。(この運動の中心人物は、当時青年会議所の理事長で、現・近江八幡市長の川端五兵衛氏である。)だが、その陳情の内容には具体性がなく、県から全面浚渫する意義と必要性などについて回答を求められた。これに対し、京都大学西川幸治教授の指導により、具体的な保存修景計画書「よみがえる八幡堀」を作成した。

イ また、同時に青年会議所はメンバーが自ら堀に入り清掃活動を開始した。昭和50年(1975年)6月以降、毎週日曜日に繰り返し堀に入って清掃する姿は市民に共感を呼び、徐々に参加者が増えていった。堀の清掃を通じて、汚れた堀は公害であるという単純な認識から、自分たちの手で汚した堀であり、堀は自分たちのものであるという住民の共通理解を生むに至った。8月末の清掃作業最終日には滋賀県知事が視察に訪れ、堀には、 1000人以上の市民が詰め掛けていたという。

ウ そして9月、竹村滋賀県知事(当時)は、建設省の認可を受けて進めていた護岸工事(この時点で既に約200mの区間が完了していた)を中止し、予算を国に返上するという異例の決定を下し、県の事業として昭和51年(1976年)全面浚渫工事に着工し、昭和54年(1979年)に完了した。

6 現在の八幡堀

(1)八幡堀を守る会
八幡堀の修景事業が進められる中、商家の主婦5人が景観を残す運動を始めた。この活動を契機に、昭和63年(1988年)に300人の会員で構成される「八幡堀を守る会」が発足した。
毎月1回の清掃や空き缶拾い、花菖蒲を守り育てる活動などの景観保全活動を行っている。

7 視察を終えて
八幡堀が保存され、町並みが伝統的建造物群保存地区に指定された頃から、近江八幡市は歴史情緒あふれた町として知られるようになり、多くの観光客が訪れるようになった。
だが近江八幡の人々は観光産業的な政策を行ったのではない。彼らは観光客を呼ぶためではなく、400年前の先人がつくり上げた近江八幡の市民であるという誇りや文化を残すため、八幡堀や伝統的町並みを保存したのである。観光客は近江八幡市民の誇りを体感するためにここを訪れている。
残念ながら、江戸川区には観光資源となるような歴史的建造物は数少ない。 だからこそ、数百年後の区民が誇りに感じられるような江戸川区を、我々が今つくらなければならない。後世に言い伝えられ、そして守り続けられるようなまちづくりに取り組む決意を、この視察を通して新たにした。